当院は1964年の土屋小児科医院開設以来、患者様の急変に備え夜間診療を積極的に行っております。
1990年頃より国民の専門医指向が強まるなど小児科を取り巻く環境が急速に変化し、1998年には近隣の幸手市で小児救急搬送事件が起き小児救急のニーズに応えるため1999年に一当院は次救急指定病院となりました。
幸手救急搬送事件を背景に行政の強い要請により2000年4月より2次救急医療圏である埼玉県東部第一地区で小児2次救急輪番制が立ち上げました。
当時、1980年中葉以降の医師数抑制政策、医療費抑制政策による医療崩壊が顕在化し特に経済基盤の脆弱な小児科は地域の医療ニーズに対応出来ない状況に陥りました。この時代多くの小児科病院が閉鎖されました。
病院の経済的側面を救急、時間外診療を中心に検討しました。
2003年5月22日 埼玉県東部第一地区地域医療対策事務研究会総会と埼玉県東部小児懇話会合同会議
この会議では小児救急医療の集約化(地域連携小児夜間、休日診療・・診療所の医師が休日・夜間に2次救急病院で診療を行う制度)の実現を目指し議案を提出いたしました。しかし、一部の委員より2次救急と1次救急の統合、集約は私的病院と、その病院のある自治体を利するものであり、本当に必要なものは2次病院の無い地区の休日、夜間診療所だという意見が出、意見の一致を見ることが出来ませんでした。2003年10月7日 東部第一地区救急医療対策協議会小児救急医療部会 第1回
2003年11月13日 東部第一地区救急医療対策協議会小児救急医療部会 第2回
小児救急医療の集約化の必要性と、小児救急に対する病院への補助の必要性を主張しましたが、救急の集約化に難を唱える一部小児科医のために足並みが揃わない事を捉えられ、また2次救急 病院を持たない市町村から小児の医療施設が遠いとの理由で反対を受けました。
2004年度からの初期臨床研修義務化が実施され、大学で行っていた市中の総合病院で研修医の初期研修ができるようになった。このため大学病院で研修を受ける医師が都市部の基幹病院に移動、地方病院の医師の供給元となっていた大学病院は医師不足となり、大学より医師の供給を受けていた病院は一気に医師不足となりました。
2006年4月5日 地区の小児科病院の一つが常勤医の退職のため小児二次救急輪番の担当を続ける事が出来なくなりました。埼玉県東部第一地区の365日の2次救急輪番体制は中断することを余儀なくされることとなりました。
2007年4月 更に別の基幹病院の小児科医の不足のため2次救急輪番日担当日の削減と小児科外来の完全紹介型への変更しました。
「わが国の小児医療・救急医療・新生児医療体制は小規模な病院小児科と小規模なNICUで構成されています。その結果として少数の医師は他科の医師と比較にならない頻回の当直、休日勤務を強いられています。また地域における小児科時間外診療の要求はますます高まり、一方で小児科時間外診療の現体制維持すら困難になっています。」(日本小児科学会)。
この様な状況を打開するため日本小児科学会は「小児医療提供体制の改革」案を提案し、病院の集約化を行い大病院へ小児科医を集中させ過重な小児科医の労働負荷を減らし小児医療を守るという構想をスタートさせました。当院の様な小さな小児科病院は如何に救急医療に携わっていようとも必ずや淘汰され集約化されるとの考えでした。その結果、中小の病院小児科の中には組織の維持が困難となり休止、廃止する施設が相次ぎ、医療崩壊は国会でも論議されるようになりました。
埼玉県北部の小児医療、特に救急医療の状況は更に悪化し、2009年に埼玉県上田知事の来訪を受けました。「(当院の属する)埼玉県利根地区では小児救急輪番の空白を生じるなど小児救急医療体制に不備を生じており、周辺地域での小児医療供給体制も深刻なため利根地区の小児医療の崩壊が生じると埼玉県の小児医療システムにも影響が及ぶ可能性がある。」とのお話で、当院の地域医療再生基金を使った機能強化の要請を受けました。
2015年、24時間365日体制の救急医療体制を実施して3年になりました。24時間小児科病院を安定的運営するには優秀な小児科医、看護師、パラメディカルの常駐が不可欠で、このための維持運営のコストは膨大です。箱を作っただけでは小児救急医療は実現できません。